律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土>はいはい妄想

2008/11/25 06:54

 

2008/11/25 asahi.com

律令制は百済から学ぶ? 韓国で類似制度示す木簡出土

 

 

 古代の日本が中国をモデルに律令制度を整備する際に、朝鮮の百済(くだら)(4世紀半ば~660年)が窓口の役割を果たした可能性を示す木簡が韓国で発見された奈良~平安時代の律令国家を支えた財政制度「出挙(すいこ)」と同様の仕組みが百済に存在し、記録の方法も日本と同じであることが分かった。

 

 百済の都だった扶余で、今年4月に木簡6点が発見された。周辺には役所が並んでいたと推定され、木簡の1点に税の収納を担当した役所の「外椋部」の名があった。木簡は長さ約30センチで「貸食記」と表題があり、618年のもの。日本は飛鳥時代で聖徳太子の時代に当たる。国立歴史民俗博物館の平川南館長(日本古代史)、早稲田大の李成市教授(朝鮮古代史)らが解読し、百済が国庫に持つ稲の種もみを運用した「出挙」の記録と判断した。

 

 

 出挙とは、作付けの季節や食料が不足する端境期に農民に種もみを貸し、収穫の秋に回収する制度で、中国では私的な貸借だった。中国をモデルに8世紀に整備されたとされる日本の律令制度では公的制度としても運用され、租庸調と並ぶ財源となった。私的な出挙の利子は上限が10割だが、公出挙では5割。地方の役所の運営、港や駅の維持、寺社の造営など、広範な行政や社会活動が公出挙の利子に依存し、貸し付けは次第に強制化したとされる。

 

 見つかった木簡から、百済にも公的出挙が存在し、利子が日本と同じ5割だったことも分かった。出挙を記録した木簡は、日本では7世紀末以降のものが出土しており、書式もよく似ている。(渡辺延志)

 

     ◇

 

 〈鈴木靖民国学院大教授(日本古代史)の話〉 古代の国づくりの知識は、遣隋使や遣唐使を通じて中国からもたらされたというイメージが強いが、中国とは国の規模も違い、そのまま導入するのは難しかったはずだ。百済はいち早く中国の制度や文化を取り入れ、当時の日本とも親しい関係にあった。今回見つかった木簡は、国の根幹にかかわる財政制度が百済から導入されたことを物語る

 

引用ここまで

 

 

 日本は遣隋使、遣唐使をシナに送っていましたし、百済も当然ながらシナと交流があったでしょう。当時のシナはアジアにおける文明の光源ですから周辺国家の制度が似通っているのは当然ですね。

 と普通の常識のある人間なら考えるところなんですけどね。

 

 もちろん律令制度を取り入れても当然のことながらそのまま導入して維持していくのは難しいですから、大宝律令が成立して20年にもならないうちに三世一身の法が制定され律令制度の骨抜きが始まるわけですけど。

 

 日本と百済に似た制度があるから日本の制度は百済からの導入に違いない、と言うのは戦後の日本はハワイの制度を参考にした、とでも言うようなものですね。プエルトリコでもいいけど(笑)。

 

 ここに名前の出ている学者がどの程度の人たちかは知りませんが、常識人から見るとほとんどおバカですね。同じような木簡が一つ発見された程度で百済が日本に影響を及ぼした、と考えるなら前方後円墳はどうなる(笑)。

 明らかに日本が半島南部に影響を及ぼしていた証拠なんだけど。

 

 というか正直者の高句麗人は百済は日本の属国、と書いているしね。たかだた木簡より偉大な王を褒め称えて建造された石碑を信用すべきでしょう。

 歴史資料などは一つのものから妄想を膨らませてはいけません。つねにその他の資料と突き合わせる必要があります。

 

 それで三国史記だのシナの史書だの広開土王碑などを突き合わせると百済は日本の属国だから制度が似ているのは当然、ということになりそうなんですけど。

 

 まあ李成市とはこんな人のようですから、朝鮮は古代から日本に文化を伝えてあげたニダ!という韓国の歴史教科書そのものの立場なんでしょうね。

 

 それにしても東大の姜尚中とか、変な朝鮮系教授が多いのは外人教授を増やして大学の国際化をアピールするための水増しか?

 

 そのためには日本語のできる在日は絶好なんでしょうけどね。

 

 

 

 ちょっとシャッターが遅れました。デブだって飛べるところを見せたかったんですが。

 

 

 

 

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コメント(11)

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2008/11/25 07:56

Commented by しゃちょう さん

お早うございます。

現在、まともな遺跡が見られない。
例え属国だったとしても、その時代、時代の遺跡が有っていいはずなのに。日本ほど地震も無いのに、保存されていない。

これで、「半島から文明が伝えられた」と主張するのは無理がある。
そして何より、百済は倭人の国だったのですから、今の朝鮮民族は全く関係無い。

「ウリナラファンタジー」は朝鮮半島内しか通じない。
いい加減、学習しろ!

 
 

2008/11/25 08:02

Commented by ご隠居 さん

To しゃちょうさん
>お早うございます。
>
>現在、まともな遺跡が見られない。
>例え属国だったとしても、その時代、時代の遺跡が有っていいはずなのに。日本ほど地震も無いのに、保存されていない。
>
>これで、「半島から文明が伝えられた」と主張するのは無理がある。
>そして何より、百済は倭人の国だったのですから、今の朝鮮民族は全く関係無い。
>
>「ウリナラファンタジー」は朝鮮半島内しか通じない。
>いい加減、学習しろ!


 無理です。百済の建物など残ってもいないのに、図面もないのに復元(笑)してしまう人たちですから。

 
 

2008/11/25 08:07

Commented by sumirehodo さん

遣隋使,遣唐使ばかり歴史で教わりましたが実は大陸からの遣日使の方が多かったとか。遣隋使,遣唐使は任務が終わると日本に帰りたがったが遣日使の方は故郷に帰りたがらなかったとか。今も昔も住むなら日本なんだな。

 
 

2008/11/25 08:40

Commented by ご隠居 さん

To sumirehodoさん
>遣隋使,遣唐使ばかり歴史で教わりましたが実は大陸からの遣日使の方が多かったとか。遣隋使,遣唐使は任務が終わると日本に帰りたがったが遣日使の方は故郷に帰りたがらなかったとか。今も昔も住むなら日本なんだな。


 そういえば日本に来た唐僧は多いですね。明が滅びる時も大勢が亡命してきましたし。

 
 

2008/11/25 10:17

Commented by kongousanmiyaku さん

ご隠居さん始めまして。いつも拝見させていただいてます。
>明が滅びる時も大勢が亡命してきましたし

中共政府が滅びるときも大勢が亡命しようとするんですかね。
かつては、亡命者が日本に文化・文明をもたらしましたが、現在では、亡命者は犯罪・社会不安をもたらすんでしょうね。

ああ、麗しき日支の形(涙

 
 

2008/11/25 10:21

Commented by  さん

このリーさん、なにやら遣唐使にけちつけてます。
明治維新の時の発案だとか、なんで遣新羅使かケンコウクリシ(変換がじゃまくさいのでカタカナにしときます)じゃないんだと言いたげです。
あほらしけどリンク先全部読みましたがな、謝罪しる!!

 
 

2008/11/25 10:46

Commented by ご隠居 さん

To kongousanmiyakuさん
>ご隠居さん始めまして。いつも拝見させていただいてます。
>>明が滅びる時も大勢が亡命してきましたし
>
>中共政府が滅びるときも大勢が亡命しようとするんですかね。
>かつては、亡命者が日本に文化・文明をもたらしましたが、現在では、亡命者は犯罪・社会不安をもたらすんでしょうね。
>
>ああ、麗しき日支の形(涙


 はじめまして。
 確かに昔のシナは仰ぎ見る大国でしたし文化の源でしたが、向こうが儒教的停滞をしている間に日本はどんどん進化してしまいましたからね。

 かっての文化伝道者が今は犯罪者・・・・
 それでも中国文学者などは昔の書物が相手ですから迷妄から覚めないようですが。

 
 

2008/11/25 10:47

Commented by ご隠居 さん

To 出羽之守さん
>このリーさん、なにやら遣唐使にけちつけてます。
>明治維新の時の発案だとか、なんで遣新羅使かケンコウクリシ(変換がじゃまくさいのでカタカナにしときます)じゃないんだと言いたげです。
>あほらしけどリンク先全部読みましたがな、謝罪しる!!


 リンク先には不愉快な表現が含まれる場合もございますのでお客様の自己責任で閲覧願いますw

 
 

2008/11/25 11:19

Commented by pal0327 さん

今朝の朝日新聞の紙面にも同じ記事が出ていました。”変な話だ・・・”と思いながら読んでいると、この記事の真下に”東南アジアでの従軍慰安婦問題を考える”という集会が都内某所で行われたという記事。主催パク某。
朝日は完全あせってますね、毎日必ず”ザイニチ”物語を載せてます。

 
 

2008/11/25 11:33

Commented by ご隠居 さん

To pal0327さん
>今朝の朝日新聞の紙面にも同じ記事が出ていました。”変な話だ・・・”と思いながら読んでいると、この記事の真下に”東南アジアでの従軍慰安婦問題を考える”という集会が都内某所で行われたという記事。主催パク某。
>朝日は完全あせってますね、毎日必ず”ザイニチ”物語を載せてます。


 工作員のノルマでもあるんですかね。

 
 

2008/11/25 11:59

Commented by jess さん

四世紀、新興新羅は北の高句麗に保護を求め、同じく百済は南の大国倭国と好を結んだ。倭国-百済の関係は、七世紀(660年)まで続いた。
遣隋使は、倭国の「日出る処の天子」が派遣した。名を「多利思北孤=足りし矛」という。倭国の統治領域の中に、噴煙を上げる阿蘇山があった。
大和朝廷は筑紫倭国が遣隋使を送ったことを参考に、次の唐へ使いを派遣した。七世紀末までの大和は、九州(筑紫)王朝の支配下にあった。
律令は、大和の袁本杼(男大迹、継体と諡)にだまし討ちにあった筑紫君倭崴(岩井、盤井とも)によって流布された。六世紀初めのころである。それを七世紀始め、葛城(天智と諡)が取り入れ「近江令」とした。その延長に「大宝律令」がある。その倭崴は、いま久留米の岩戸山古墳に葬られている。
因みに漢字は、紀元前後に倭国(筑紫)に入って来たようだ。57年には倭国王は後漢に使いし、「漢委奴国王」の金印をもらった。倭国の人々は、この意味を理解できたのだ。三世紀の卑弥呼は、魏の明帝の詔に対して、上表している。宮廷官僚は、漢文が読めかつ書けたのだ。
なーんちゃって、きばってみた。返信、不要です。

 
 
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